2011年10月23日日曜日

スティーブジョブズが死んだ

 スティーブジョブズが死んでしまいまして,心にポッカリと穴が・・・なんていう人もいるらしいですが,僕はケロッとしています。
 しかし,「死」という言葉を聞くと自分の「生」について考えてしまいます。
 まとめました。

 1990年8月。私はタイで生まれた。
 幼稚園はtwinkle starというEnglishな幼稚園だった。その幼稚園の園長先生の親族(あまり覚えていない)が投身自殺者の下敷きになって亡くなってしまった。幼い私は「死」がよく分からなくて,親に「死んじゃうって事はいなくなっちゃうことだよみたいな説明を聞いてもよく分からなかった。
 でも,園長先生が狂ったように泣いてたのは覚えてる。それから一年ぐらい後に仲の良かった友人が日本に本帰国して大泣きしたのを覚えてる。タイ人のスタッフ(確か)が笑ってて思いっきり睨みつけたりしてね。こういったら園長先生とその友人に申し訳ないが園長先生の気持ちがちょっと分かった。それから自らの人生に何の悲観もせずバラ色人生を歩んだ。
ただ恋人たるものがいなかったぐらいで。

 小学校に入ってからは乙女と聞いては飛んでいくような下衆野郎だったが,特に大きな行動をするほど大きなハートを持ち合わせておらず授業中先生に茶々を入れる事に時間を費やして終わった。しかし,小学生だった当時はすでに自分は全知全能の持ち主だと悟っており,自分は何でもできる。と過信(できると思った半分ぐらいしかできてなかったと思う)しており,バットマンを見ては俺にも空は飛べるなんて思ってた。飛ぼうとして木登りしていたら落ちて頭にでかいたんこぶ作ったのはいい思い出。

 中学校に入ってからはいわゆる“中二病”が発症し,「生徒会」たる寒い奴らが集まる組織でひたすら雑談らしい雑談をし「会議だ」とのぼせ上っていた。もちろん黒歴史ばかりなので今回はあまり触れないこととする。この中学生時代に久しぶりに「生」を考えることで間接的に「死」考えた。それは一人の先輩(当時恋心を抱いていたが当時の私は数十人に恋心を抱いていた。今考えると本当に下衆野郎である。)の作文がきっかけだった。日本人学校は通学にバスか自家用車を使う。道はとんでもなく混んでおり,大きな交差点には新聞やら花を売っている少年や少女がいて「買わない?」って訪ねてくる。当然私は当たり前のことで,不思議に思っていなかったがその作文ではそのことに焦点を当てていた。恋心を抱く乙女の心境を知りたかった紳士な僕は彼女の立場になって考えた。
 これが間違いだった。
 当時から「インターネット」たる情報網を活用できた私は一通り調べて衝撃を受けた。余談だが,当時くよくよしていたY君を「腹が立つから」という理不尽な理由で苛めていたが,このぐらいの時期からどうでもよくなってた。「一生くよくよしてろ,とりあえず俺の邪魔だけはするな」という感じである。
 完全にジャイアンである。申し訳ないことをしたと思う。ごめんなさい。
 さて,この「貧しさ」という学問から私はルールを作った。(というか問いかけ?)
 「その行動は貧しい人々の前でもできることか」
 まるでキリスト教のように「神の前でできるか」みたいになっているが,私にとっての神は全知全能の主(=自分の内にいる自分)であり,もはやカルトである。
 幸い信者は私一人だけである。
 今振り返れば今まで相当stupidなことをした。やはり半分ぐらいはルールに従っていない気もする。今もこの気持ちは変わっていない。そんな中,中学2年生の冬,日本へ本帰国した。
 理由は「兄貴と同じ家に住むのが嫌だったから」
 本当にどうかしてるよ。

 日本に帰国して,横須賀の学校に転入した。当時の私はあまりの民度の低さに正直困惑した。授業がつまらない。楽しかったのは初めてやった砲丸投げだった。というか陸上部が楽しかった。(砲丸投げの成績も右肩上がりだった)陸部の顧問に誘われたときはすぐにバスケ部をやめて陸部に移ろうとしたがバスケ部の顧問の先生に「夏まで待って」と言われたので待った。
 最後の試合はワンゴール差で負けた。俺はフリースローを3本外した。
 とにかく夏が終わり砲丸投げの練習をひたすらした。(筋トレと鉄の球を投げるだけ)最初10m飛んでいたのが2ヶ月後の県大会では14m飛ぶようになった。やはり私は全知全能だった。そんなこんなで気づいたら10月になっていた。高校受験の模試を受けたら偏差値が50しかなかった。これはまずいと思ったが,幸い内申点が高専の推薦36点ぎりぎりあったので推薦でいけば受かると思い込んでいた。もちろん勉強はしていた。
 推薦の基準となる成績がでた。内申点は35点になっていた。私はよそ者を嫌う横須賀が嫌いになった。ドブ板通りはシャッター街だし。そんなわけで一般入試で入らなくてはいけなくなったので塾の先生(神大)に質問をしては毒を吐き,勉強をした。晴れて受かった。やはり全知全能である。

 高専に入学した。
 もう民度の低いヤンキーも数だけいた女子もいない。いるのは理系と似非理系の高専生だった。女子がいないという今までの人生の中で味わったことが無い苦痛から私はどの高専生もかかるといわれる“高専病”にかかった。しかし,高専病にかかったのもつかの間,ある一冊の本に出会う。
 「風に舞いあがるビニールシート」
 環境の変化にあたふたしていて忘れていた「生と死」に向き合う本だった。私は黒髪の乙女と戯れるという青春に必ず必要となる儀式を「高専に入ったから」ということを言い訳にして捨てた。高専1年生の時は自分は博士を取る。と決めていた。手始めにいろいろな経験をしようと文化祭実行委員に手を挙げた。そこで企画部門という部門に入った。
 やはり間違いだった。
 全知全能の神は「大衆を笑わせる」と「人前でしゃべる」という能力を持っていなかった。多忙な事務屋として,仕事をしているふりをするのに忙しかった。3年生のときに5つの単位を落としかけ,追試のために自動車免許をキャンセルした。
 結局4単位落とした。
 しかし,忙しいフリをしたおかげで文化祭に未練がなくなった。「後は頼んだ後輩たち」ということで引き継ぎもなしに逃げた。もう単位は落としたくない。4年になって反撃が始まった。「私は神だからやればできる」結果,できなかった。私は凡人以下の高専生だった。4年の中頃,私はもう就職するつもりだった。進学できないと思ったからである。

 しかし,おそらくその時に就職だ進学だより大切な選択があった。研究室選択である。私は情報通信研究室を選んだ。正しい選択だとその時は思った。無能な私は先生に2秒で干された。
 そして約1年間干され続けた。自分がいかに愚かであるか,よく分かった。愚かゆえに良い所に就職したい私は研究をほっぽり出して就活に励んだ。某鉄道会社から内定をもらった。私は自らを「人生の勝ち組」と称し,浮かれた。そして干された。しかし,先生と話していくうちに社会で何が必要な学んだ。たくさんの失敗をして先生を怒らせ雷をいくつか浴びた。
 先生の「大勢に影響なし」という言葉は一つの“レンガの壁”である。
 よく「お前が死んでも,大勢に影響なし」と言われては「生きていても大勢に影響ありませぬ」と返し生き延びた。
 私はこの言葉について本気で考えた。特に寝る前と起きた後である。夏休みは毎日研究室に通い,昼は研究,夜は瞑想とおおよそ青春とは言い難い生活を送った。それでも研究室選択は正しかったと思う。「大勢に影響なし」という言葉が私の人生の点と点を結んだ。
 高専最後の1年は充実していた。先生,ありがとうございます。

 会社に入って半年が過ぎた。
 日本を変えるとか
 世界を変えるとか
 そんな大きなことは思っても何をやればいいのかわからない。
 ただ私は,毎日手を抜かず生きていく。
 私の中の全知全能の神が目を覚ましたとき,世界を変えられるようにと。


 皆さんもジョブズやランディパウシュのスピーチを聞いて,
 生と死について考えてみてはいかがでしょうか。